劉先生の一周忌にあたって (朱剛 2005年6月) 劉先生の1周忌にあたって劉劉先生が亡くなられてから年を迎えようとしています。 あまりに突然の出来事でしたので、まだ生きておられるように感じていましたが、今年3月末、丹東での納骨式に参加して、やはり劉先生はもういらっしゃらないのだと言う事を実感しました。 納骨式終了後、国内外から来た人の弟子達と丹東センターの責任者を交えて今後の禅密気功のあり方を話し合いました。劉先生から伝えられた伝統的な健身気功法を守って、正しく世の中に伝える事が禅密気功の恩を受けた私達の責任である、と全員が感じていました。世の中には最初は健身気功法とうたいながらも、そのうち段々目的がずれていく団体も多いですが、私達団体はこれからも互いに応援し、良い雰囲気を守っていこうと決意を新たにしました。 劉先生の1周忌を機会に、ここで禅密気功の文化大革命以降の歴史を振り返ってみたいと思います。 1980年、文化大革命後、社会がやっと安定してきて、大勢の人たちが傷ついた心を癒したいと求めはじめていました。民間に伝わる古来の養生法が久しぶりに活発になりだし、気功という養生法も国から注目し始められました。その時に李之楠先生が北京古代気功グループ(後の中国気功科学研究会)を結成して、遼寧省と協力して劉先生の双雲功を整理し、その後この功法を中国気功運動委員会科学研究所が開催した「引動功(当時の双雲功の名称)座談会」に発表し、実演もされました。これは気功界で「自発動功」が世に出た始めであり、その後の気功発展の引き金になると反響をよびました。 1981年4月、丹東体育委員会はこの功法の公開を検証し、有効率79.4%に達した事が分りました。1983年、劉先生は遼寧省各地から来た生徒達に禅密気功を公開しました。1984年、劉先生は承徳市と北京市で2 回、全国から来た生徒を対象に講義を開きました。1985年からは中国各地及び外国を訪問し、教えを普及していきました。一番活発だった時期には中国では最大功法の一つになり、延べ人の人達が禅密気功を練習していたそうです。各功法を公開してきた順番は以下の通りです。 |