気功の概念について 気功という言葉の由来は道教、厳密にいえば、道家からきています。 50数年前、劉貴珍という気功師の著書の中で気功という言葉が定義、紹介され、以降広く世に知られることとなりました。その頃の気功の定義は、呼吸を整える事を通して元気になる方法でした。もちろん中国には2千年前から意念、気持ちを整える瞑想法はありましたが、それらは気功ではないと思われていました。 950年代の有名な修行者、陳櫻寧は呼吸を整える訓練法は気功であり、意念の訓練法は気功ではないと考えています。しかしながら、実際に呼吸を整える訓練をすると呼吸だけではなくて、体、意念、気持ちの訓練も含まれていて、練習すればするほど、呼吸を整えることよりも意念、気持ちの訓練の重要性を知るようになりました。 1980年代になると気功はもっと全国に広まって、呼吸を整える事だけでは、充分でないと分かり、そして新しい定義が生まれました。それは呼吸を通して体内の気を活性化し、意念の訓練をすることが気功だというものです。当時の代表的な気功家焦国瑞が、気功の特徴は「人の精神、体、呼吸、三つのポイントを合わせて体内の真気(内気)を訓練する方法だ」と言っています。もう一人の代表的な気功家林厚省は、「気功は簡単に言えば、気と意念を訓練する方法である」と定義しました。 1980年代以降、気功の普及と気功の新しい定義の影響で、今まで含まれていなかった道家の仙人になるため(仙道)の瞑想(禅定)と、仏教の悟りのための瞑想(禅定)が気功の重要な一部になりました。現在、仏教の僧侶に「気功とは何か」と尋ねると、知らないと答えるかもしれませんが、気功を練習する人たちは僧侶が行っている瞑想(禅定)は、気功だと考えています。 2000年前後には、気功を大学の教育に取り入れるためにテキストを作る時、気功に関する専門家たちは何日間もの論争の後に「気功は体、呼吸、意念を整えること(三調)を通して元気になる功法である」と定義をまとめました。 以上で気功の認識についての経緯を簡単に紹介しました。 次に私が言いたいことは、仏教の瞑想(禅定)は、気功の重要な一部であると世の中に認識されてはいますが、仏教系の名前をつけた功法の中には、功法、意念の使い方、気の感覚などについてだけ強調して、気持ちの訓練があまり強調されていない場合が結構見受けられます。仏教の禅定においては、気持ちの訓練は重要なポイントです。本当の仏教系気功であれば、気功を練習する時は初めから最後まで、ほっとするような、落ち着く気持ちを養うことを強調しています。意念と気は、その落ち着く気持ちを出すために訓練するのです。 気功態になると様々な感覚が浮かんできます。いろいろな気の感覚や、直感が強くなるという感覚、気持ちが良くなるという感覚もあります。夢うつつの状態になると、空中浮遊のような感覚になって、虚の世界に入っていると言う感じもあります。どこかの感覚に意識を集中していくと、その感覚が強化され、拡大化されます。 それからさまざまな分かれ道があります。気の感覚だけに集中すると外気功や気功師の道になります。直感に意識を強く持っていくと、超能力者や占い師になるでしょう。虚の世界に意識を集中すれば、宗教の世界に入るかも知れません。そして気功態になる時の虚の感覚と、気功を練習していない時の現実の感覚をうまく切り替えないと精神が乱れます。 良い気持ちに集中するといっても、道家系と仏教系気功では微妙な差があります。景色に例えれば黄山のような山頂に登って、雲海、霧に囲まれると、仙人のような良い気持ちになりますね。それは道家系気功の強調する良い気持ちです。 また、月夜に森林の中、池のそばを散歩すれば、とてもほっとする、落ち着くような気持ちが自然に浮かんできます。これは仏教系気功を練習する時に強調される良い気持ちです。 仙人のような良い気持ちと、ほっとするような落ちつく気持ちは、少し異なりますが、両方とも健康にとっては良い気持です。それらの気持ちを昔は「大薬(体に大変良い)」といいました。両方の気持ちは無関係ということでなく、混ざっていて、紙1枚の裏表の関係であり、かなりの段階までは混ざって、繋がっています。 道家系気功と仏教系気功のどちらかが良いという事ではなく、歴史と文化の由来が異なり、気功に微妙な違いがあるという事です。 一般の私たちは健康になる為に気功を練習するので、伝統的に信頼できる道家や、仏教系気功の練習を続けていけば、必ず良い気持ちを身につけることができ、健康になります。 気功の概念の流れと私の考え方を以上で述べましたが、次は練習を通して、体験していきましょう。 (2006年 会報40号 ) |