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会報抜粋記事

会報から参考になる記事を抜粋しました。

 黄山老子の「如意宝珠」を求めて
―― 実践者のための気功意識論と気功心理学を紡ぐ物語 ――      小原昌之(会員)

1.序章 
                                       

朱剛先生から気功の意識について書いてほしいと依頼があり、禅密気功と出会って10年の区切りでもあり、自分なりのまとめをしておくのもよいかとお引き受けした。
人の心を見つめ続け、支援する仕事も30年になる。専門である臨床心理学、傾倒している仏教心理学、最新の認知科学などを参照しながら、飽くまで気功実践をしているお仲間に興味深く読んでいただく内容にしたいと思った。しかし、なかなか筆がすすまない。朦朧とした気分でいると、心の中に立ちこめる白雲が見える。湧き起こる白雲の合間に、二人の人間が歩いているのが観える。奇岩や松の木におおわれた雄大な山の道を背の高い大人と子供が歩いている。朱剛気功師と禅在童子である。どうやら禅在童子が、これから物語の扉を開けて、私たちに心の様々な働きの謎を解き明かしてくれるのかも知れない。まずは彼について行ってみよう。
         
<発端>

「朱剛先生、ここが世界遺産にもなっている中国の黄山なのですね。」
「そうですよ。ほらあそこの松が有名な迎客松です。樹齢800年だそうですよ。
禅在さんは禅密気功を熱心に練習しながら、心の秘密についても明らかにして、より人間として成長していきたいという希望を持っていますよね。私もいっしょに勉強したいと思っています。」
「ええ、僕はこれまで心理学、脳科学、仏教心理学、哲学など学んできましたが、よくわからないのです。学べば学ぶほどよくわからなくなってくるのです。」朱剛先生はにっこり笑いながら話した。「いいですね、禅在さん。理屈じゃなくてね、実践を通して学ばないといけません。気功の練習も生活も人生の問題も、みんな大事です。私は禅在さんのその姿勢はいいと思います。」「それで朱剛先生が紹介してくださる方というのはここの松の下で待っているということですが。」
「はい。黄山老子という名前の先生です。私は東京の教室がありますからここで失礼します。特に、老子が持っている如意宝珠という丸い宝石には大変な秘密があるようなので、ぜひ私の分までいろいろ教えてもらって下さいね。」朱剛先生は、そう言うが早いか、手を振りながら走って山を駆け下りていった。「あ!先生待ってください!」禅在が追いかけようとするが、機敏に走り去る先生の背中を見送ることしかできなかった。その時、迎客松の下に白髪のひげをはやした仙人のような老人が現れていた。禅在は振り返って老人の姿を認めると、近づいて挨拶した。「初めまして。あなたが黄山老子ですね。」

<黄山老子の問い>

老子は合掌して挨拶を返した後、口を開いた。『あなたは何故禅密気功をやっているんだね?』「心身共に健康になるためです。」『健康とはどういう状態を言うのかね?』「たとえ病気があっても、心も体も元気になっていくことです。」『それだけかな?』黄山老子は微笑みながら問い返している。禅在は世界保健機関が提唱した健康の定義を思い出していた。
「心と体だけでなく、たましいも元気になっていくことです。」『その通りと私も思う。心と体が元気でも、それで人や自然に害を及ぼしていても迷惑なだけだ。』「はい。たましいには智慧があると思います。生きとし生けるものが本来繋がりあって、支えあっていることがわかっている・・。」白雲が瞬く間に立ちこめて突然老子が見えなくなった。禅在が目をこらすと、うっすらと霧が晴れて、たくさんの人がバケツに水を汲んだり、荷物を運んでいる姿が観えてきた。そこは東北地方の小学校だった。東日本大震災の被災地の避難所の光景だった。『禅在さん、手伝ってきたらどうです?』禅在は老子に一礼をすると避難所の人々の中に駆け出して行った。
    (第一章に続く)

2・黄山老子の「如意宝珠」を求めて(第一章)

<避難所での体験>

禅在童子は、我に返ると黄山の飛来石の傍らに座り込んでいた。
『禅在さん、避難所での体験はどうだったかね。』と黄山老子が覗き 込むように声をかけてきた。禅在はあれから2ヶ月間避難所生活をしてきたという記憶があるが、何故、今、ここにいるのかがわからない。あの体験は夢でも観たんだと思い込んでしまえば、それで済んでしまうような心もと無さがあった。「老子、私は何故ここにいるのでしょう?」老子は黄山一体に響き渡るような呵々大笑をしてから答えた。
『禅在さん。この巨大な飛来石がいったいどうしてこんな岩山の突端に乗っかっているのか誰も説明つかんだろう。説明は説明に過ぎない。それより厳然として飛来石がここにあるという不思議さを認めると、何とも愉快じゃないか。』「老子、私がこの飛来石と同じだというのですか?」『そうかも知れん。飛来石には飛来石の記憶がある。お前にはお前の記憶があるだろう。聞かせてくれないか、避難所での体験を。何より禅密気功を修練していることがどう役立ったのかを。』

禅在は居住まいを正して座り直し、2ヶ月の記憶を辿りながら語り始めた。
「老子、私は恥ずかしくてなりませんでした。大地震の後の津波で町が壊滅状態になっていて、たくさんの方々が小学校の体育館に避難していました。そこで私ができることは、ほとんど何もなかったのです。避難している皆さんが互いに助け合って、声かけあって、水を汲み出したり、炊き出しをしたり、段ボールで仕切られた狭いスペースで横になっていて。ただ、一人一人の体験談を聴くことで精一杯でした。・・・でも、聴いているうちに、多くの方が身内を亡くし、行方不明のままの人を待っていたり、命に関わるぎりぎりの体験をしていらして、聴いている私自身が圧倒されて、しまいには心が萎えていくように落ち込むばかりになってしまい・・。正直言いますと、そのような時に逆に子供達から遊ぼうと声かけられたり、お年寄りからお茶をご馳走になったり、男性の方々の力仕事のお手伝いをして・・、むしろ私の方が励まされたり、元気をもらえたのです。それが情けないやら、嬉しいやら・・」禅在は思わずうずくまり、しばらく嗚咽をもらして泣いた。老子は黙って禅在の姿を見守っている。その遥か上空には上弦の月が煌々と光り輝き、老子と禅在の背中をやさしく照らしていた。

<無力の力>

禅在の嗚咽がおさまると、老子はつぶやくように語った。『無力になるということで、初めて気づくこと、初めてそこで得られる力というものがある。』禅在は顔をあげた。月光に照らされた瞳が一層輝いて見える。「その通りです。それを学べました。最初は何かしてやろう。何かしてあげねば・・と、意識し過ぎて力んでいました。そうする事で結構視野が狭くなって、体育館にいらした一人一人の動き、思い、やり取りがまるで見えていませんでした。」『築基功しかり!ではないかな?』「あ!そうです。築基功をする中で私が気づいたこと。築基功をしている人を観ている中で気づいたこと。同じなのです。背骨を動かすという意識をまず持つのは大事ですが、しばらくすると、痛みがある部分や動かしやすい部分にばかり注意力が向かってしまって・・。」
『避難所の空間すべてが自分の身体だとすると・・』「はい。部分にばかりとらわれて、力んでいると、全体の繋がりや気の流れなどは感じづらくなってしまって、自分の動きも自由に動いているようで同じような動きになっていました。」

<意識の広がり>

『意識を過信せぬことだ。意識ほど頼りないものはないのだ。意識ほど危険なものもないのだ。用心しないといけない。』「しかし、老子。意識があってこその生きること。」『否、意識など無くても生きていける。眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、そして意識。末那識、阿頼耶識。』「あ!唯識仏教の心理学ですね。心が8つの重層的構造を持っていると学びました。西洋のフロイトという精神科医の心理学では、意識?前意識?無意識と3層のモデルで人間の心を考えていますし、ユングという精神科医は、無意識にも個人的無意識と他の有情無情に繋がる集合無意識などのモデルを示していますが・・。」
禅在はいつしか饒舌になっている自分を恥じた。『その知っていると思っているのもお前の意識だろう。だが、本当にお前は心を理解し、心を知っていると言えるのだろうか。』「すみません、老子。説明できるということと理解することは違うことだと思います。」老子は笑いながら答えた。『私は何も説明を否定はしておらん。ただ、説明できたからと言って、本当に理解しているとは言えないということを自覚できているかどうかは大切なことだ。教養とは本来そういうことなのだよ。』 
    (第二章に続く)
3.黄山老子の「如意宝珠」を求めて(第二章) 
             

<説明と理解>

月は沈み、東の山々の輪郭が明朗に見えてきた。暁の星がまたたいている。黄山老子と禅在童子は、黄山山頂のひとつである天都峰に向かって歩き出している。歩いているからだろうか、日の出前の冷涼な空気が心地よい。「説明できていても本当に理解したとは言えない。本当に理解できていることは説明しにくい。」禅在童子はつぶやきながら、本当の理解とは全身に染み渡るような体得感があると思い出しながら、なお、人間の心、意識というものに思いを馳せていた。すかさず老子が口を開いた。『さて、あそこが天都峰だ。』老子が指差した遥か彼方にそびえる峰が見える。しかし、そこに向かうには、眼下の谷底に一旦下らなければならなかった。そしてまた再び上がっていく。
「登ることが目的なのに、いったん降りなくてはいけないなんて。」禅在はその行程を想像するだけで疲労感がでてきてしまった。『今、出てきた疲れはお前が創ったものだよ。』「え?どうしてわかるのですか?」『疲れは少なくとも三つ以上はある。体の疲れ、頭で考える疲れ、気疲れ・・。その疲れの違いが表情や体の雰囲気にでているのだよ。よろしい、そこの岩に腰掛けて休もう。』禅在はほっとして腰掛けたものの、まだ、これから続く谷下り、そして、その後の岩上りを思ってため息をついてしまった。突然老子が訊ねてきた。『腕をゆっくり挙げてみなさい。』禅在は、軽い伸びをするように両手を挙げた。東は曙の空である。夜明けの空気が全身を浄化するように心地よく、一瞬にして、山頂への行程を忘れることができた。

<自然な動きの真実>

『はたして、腕の挙げ方とは何通りあると思うかね。』「腕の挙げ方ですか?」禅在は老子の突然の問いに戸惑い、同時に、何故そのような問いを出されたのか考えていた。老子は続けて『背骨の動かし方は何通りか?と問われて三通りと答えるのではあるまいな。』と言って微笑んだ。「ほとんど無限数あると思います。動かす角度、筋緊張の強さの程度、速さ、各関節の組合せも含めると・・。」『よろしい。ほぼ無限の動かし方があるだろう。その中で、今自然に動ける動きとは、どの動きかな?もう一度自然に腕を挙げてみなさい。』老子にそのように言われた途端に禅在は大いに戸惑った。一旦は腕を上げてみたが、それが自然の動きかと問われると、何か違うような感じがする。意識すればするほど自然に腕を挙げるということがわからなくなってきた。
『自分は自然に腕を挙げていると思えばいいのじゃないか?』
「いえ、老子。それはごまかし、思い込み、鈍感な状態と思います。自分の頭は納得しようと思っても、体が明らかに納得していません。」
『見込みがあるな。それが発心(ほっしん)というものだよ。』
「発心ですか?求める旅、求める道の始まりに立ったということですか?」
『天都峰に向かうということと、天都峰に立つということはどのように違うかな?』
「わかりません。歩いてみないと。これから行ってみないと。それは未知なるものです。」

<既知なるものから未知へ>

『よろしい、やはりお前は見込みがあるな。無限の可能性の中から唯一、これしかない、それしかないという自然な動きをどうやってつかんでいるのか。』
「考えたら、ますます困難になりますね。」
『その通り。ますます正解から離れていくばかりだろう。さあ、一休みは終わりだ。歩こう。ただ歩いてみよう。』
禅在は何かつかみかけてきた感じがした。心無しか足取りも軽くなっている。その勢いにまかせて、老子に請うてみた。「老子、一つお願いがございます。天都峰に登頂した際に、老子がお持ちの如意宝珠というお宝を拝見させていただきたいのです。」
『よろしい。』「ありがとうございます。」あまりにあっさりと承諾されて、禅在は浮き立つ気持ちになった。ますます足取りが軽くなり下り坂であることも手伝って、足早になってきた。如意宝珠によって全ての心の真実、秘密が解き明かされるのだ。
『心ここにあらずだな。お前は今本当に歩いていると言えるのかな?』
「はい、歩いています。そして、天都峰に着くことを楽しみにしています。」
『お前はただ歩くということができていない。ただ歩くということは既知か未知か?』「すでに知っております。既知です。」
『それでは天都峰には辿りつけないぞ。』
「いえ、大丈夫です。」

禅在は次に生じる必然の痛み、必然の病いに気づけぬまま谷に下っていった。朝霧が濃く立ちこめている。
                         (第三章に続く)

4. 黄山老子の「如意宝珠」を求めて(第三章)

朝霧が立ちこめる中、禅在と老子は谷に下っていった。一段、一段下る中で、膝や足首に自らの全体重がかかってくるので、山は登る時以上に下る時の動きに十分注意を払わねばならなかった。しかし、禅在は目的である天都峰で得られる収穫に心を奪われて、刻一刻の積み重なる疲労に合わせた適度な歩行のペース、一歩一歩の足運び、必要な小休息を忘れていた。一瞬一瞬の状態を丁寧かつ明晰に感じ取り続けている状態をmindfulnessと言い、現代の最先端の精神療法でも注目されている状態である。もともとは今から2千数百年あまり前に釈迦
が仏陀となる時に、誰にとっても苦を除く上で、重要な修行の目安になる状態として示されたものである。釈迦にとっても、自ら悟りを開く際の重要なきっかけになるものであった。ごく簡単に言えば、今、ここの瞬間、瞬間に、何ら判断や評価をせずに、注目し続けていっている状態である。言葉で説明をすれば一行ですむが、私たちが、これを実践しようとすると、数分と持たず、心が散ったり、何らかの思考にとらわれてしまう。その状態はmindless(心が放逸している)な状態と言って、過去か未来に心がとらわれている状態である。過去にとらわれてばかりいると抑うつ的な気分が高まり、未来にばかりとらわれていると不安な気分が高まる。そのような時こそ、mindfulnessになることを思い出し、実践の行をすればよいのである。それは、日常の中で、ただお茶を飲む時でも、歯を磨く時でも、トイレで排泄する時でも、歩いている時でも、ありとあらゆる日常動作の中で実践ができることである。改まった気功の練習は、むしろそのような日常の中の行が危しくなって、修整が難しい時にこそ役立つ。そして、気功の練習により、本来のmindfulnessな状態を思い出し、再び日常の中に還元していくことで、生きて生活すること全てが気功になっていく。
そこでは、病と健康は対立せず、病を持ちながらの健康があり、健康な部分を持ちながら病んでいることもある。病によって自らの健康を即、その時に感得させてもらえることが多いのではないだろうか。
気持ちよさと痛みも、そのように対立的にとらえず、包括的にとらえるようにしてみると身体感覚がより精妙にとらえられるようになる。
さて、禅在のいる場所に戻ってみよう。

<絶え間ない痛みの中で>

朝霧は一旦晴れたものの、黄山の濃霧は昼夜問わず立ちこめてくる。禅在はマイペースで歩く黄山老子の姿を見失い、それがなお一層、焦りと不安を招き、自分の歩行ペースを早め、膝への負担を増した。そしてついに膝の激痛とともに、膝を曲げることができなくなってしまった。「老子!老子!どちらですか!!膝が痛くて歩けません!!」
老子からの返答はなかった。「誰か!どなたかおられませんか!」近辺を歩いている人に助けを求めたが、誰からも反応はなかった。この濃霧で、多くの登山客は山小屋で待機しているのだった。突然、雨が降ってきた。大粒の雨である。ぼたっ、ぼたっと落ち、間もなく、どどどっと滝のように大水が天から降ってきた。禅在はまさに谷底にたどり着いたところで一歩も動けなくなった。大雨に打たれ、為すすべないままその場にへたり込んでいた。またたく間に全身ずぶ濡れになり、

心身ともに無力の中にいた。歩くことを甘く見ていた己の愚かさ、天都峰に向かい如意宝珠を見せてもらうことに心が奪われてmindlessになっていたこと、誰にも助けてもらえない恐怖心よりも自分の情けなさの方が身に沁みてこたえた。「うわあああああっ!!!」思わず、雄叫びをあげてしまった。天を仰ぎ、何度も何度も叫んで、泣いた。すると不思議に、心が静まってきて、当初感じていた無力感の味わいが幾分違ったものに変化してきた。嫌なものでもなく、何かごく当たり前のものであり、拒否したり怖がるものでもないものに変容してきていた。意識を下腹部の中心に持っていき、吐く息を一息一息そこに集めた。しばらくそうして瞑想していると、痛んでいる左膝が温かくなってきた。何かに包まれて、明らかに血流がよくなって、回復している感覚がある。眼を開けてみると、目の前に朱剛先生が微笑んでいる。
両手で外氣を当ててくれていたのである。「どうしましたか?大丈夫?
」「朱先生、いらしていたんですか?」「はいー。姿が観えないので探しに来たんですよ。」「ああ、大分、膝の痛みも和らぎました。もう大丈夫です。」「良かった。じゃ、いっしょに天都峰まで登っていきますか?」黄山の霧が晴れた。見通しもよくなり、天都峰が彼方に見える。
禅在と朱剛気功師はいっしょに歩き出した。                
  (最終章に続く)
5.黄山老子の「如意宝珠」を求めて(終章)
         
<天都峰>

禅在と朱剛気功師は急な岩山をよじ登り、いくつもの難所を越えていよいよ天都峰の頂上付近まで辿り着いた。さすがに二人とも息が上がっている。しかし、この山の空気は不思議で、休んで一分も経たないうちに息が整ってしまうのである。ほのかな梅の香があたりを包んでいる。「禅在さん、よくここまでこれましたね。あと一息です。私はここで待っていますから、どうぞ一人で行ってください。黄山老子がお待ちでしょう。」「え?折角ここまでごいっしょしたのですから、先生もいっしょに来てください。」「いえ、私はここで待っています。黄山老子は禅在さんに如意宝珠を渡したいのです。」「わかりました。では先生はここで待っていてくださいね。」朱剛気功師は笑顔で手を振ってから、すぐに断崖の縁に腰をおろし、雄大な黄山のパノラマを気持ちよく眺め、漢詩を朗々と吟じた。禅在は朱剛師ののびやかな声を聴きながら、急な岩山の路を登っていった。

<如意宝珠の秘密>

頂上は人が10人もいれば埋まってしまうくらい狭い空間であった。禅在は荒くなった息を整えてあたりを見渡した。東には仏掌峰が見える。後ろは蓮花峰が霧をまとってそびえている。「黄山老子!禅在はただいま参りました!」見ると、老子は仏掌峰に向かって座り瞑想をしていた。「禅在さん、ここに来て座りなさい。約束の如意宝珠もここにある。」禅在は老子と並んで座った。禅在はいつものように姿勢を整えて、額の奥と下腹部の中心に気のエネルギーを感じ、その間を光として捉えられる気の流れを行ったり来たりさせながら、気功的瞑想を深めていった。どれほどの時間がたっただろうか。禅在が左右の親指を合わせて組む解脱印という手印の中に、老子が如意宝珠を置いた。禅在ははっとして、眼を開けようとする刹那に「眼を閉じたままで!よくそれを観なさい。観じなさい。」老子がすかさず声をかけてきた。
禅在はただひたすら手の平に乗せられた如意宝珠に注意を向けてみた。それは温かく、柔らかく、広がりがある不思議な物体であった。否、物体というよりもそれ自体が意志を持って常に動いている一つの生命体と言った方がふさわしいものであった。温かなその感覚は、谷底で自らの痛めた膝に外氣を当ててくれた朱剛師の持つ氣と同じであった。
老子の声が聞こえた。「自由に動いてみなさい。自然に。伸びやかに。」

禅在は気づくと、立ち上がって微動し、揉動していた。「自らを開放し、自らを信じ、ただ自らになって。」老子の声がいつしか自分の意識の声となり、すぐにそれは松からの風となり、吹き抜けていく。自らが風となって、天都峰の上空まで舞い上がっていった。自分という身体の境界は曖昧となり、ただ自由自在に動いている感覚だけが流れている。
ある時は夕日の茜色に染まり、ある時は月夜の光となっている。ある時は麓の滝の流れとなり、草の露となる。その露となった自らは月光に充たされている。ある時は漢詩を吟ずる朱剛師となり、ある時は被災地の人々となる。ある時は都会の建物の中にいる人となり、上空の雲となっている。水面に飛び込んだと感じると、魚になっている。透き通った海中から、濁り汚れた海中までも泳ぎ続けている。ある時は人の体内に入り内臓になっている。60兆の細胞の一つとなりうごめいている。宇宙そのもの。無限のミクロコスモスとマクロコスモスがつながり循環している。自らは光そのものになっている。流れている。
流れそのものになっている。思考も概念もない世界が豊かに広がっている。

<帰還>

禅在は眼を開けると、今まさに仏掌峰から朝日が上がっていた。
清々しく、何ものも滞るものがない感覚となっていた。全ては自分の分身で、なおかつ、自分は大いなるものの分身かも知れない。禅在は如意宝珠の意味が体認され、かつ体現されている感覚を味わっている。
禅在は腹の底から笑った。呵々大笑の響きが黄山中に響き渡っている。
黄山老子も朱剛師も禅在の分身だった。この大いなる黄山も自らの分身であり、同時にその分身になっていた。この世界は全てが相互に分身になって支えあっているのだが、自らは自らの分身を心を込めて生きていくしかない。「さあ、ゆっくり降りていこう。」禅在の姿は白雲の中にゆっくりと消えていった。
 春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪冴えて 涼しかりけり    道元          
人格と気功
人間には善、無私の気持ちと、わがままな気持ちが必ず混在しています。
わがままな性格が強くなると、社会との繋がりがうまく出来なくなり、社会にも自分にも悪い影響をおよぼします。人間が本来持っている穏やかな気持ちから出ている善、無私の性格が高められると、人間関係、社会関係、大自然の関係とも良い状態で繋がれるようになります。
“我”が強いと、気持ちを静かに保つ妨げになり、強ければ強いほど悩みを抱えやすく、人間の苦しみの原因になります。逆に“我”が薄くなると、感情の揺れも少なくなり、気持が穏やかになります。

人格を高めると、目の前の欲をある程度抑えられ、善の気持ちが増えてきて、幸せな感覚が溢れてきて、より良い人生になっていきます。
気功の真髄は、気持ちの訓練であり、穏やかな気持ちになるための練習なので、人格と非常に関わりがあります。気功を常に練習していると、意識と感情の揺れが少なくなって、穏やかな気持ちがわがままで欲張る気持ちを抑え、人格を自然に高める事ができます。この練習を日本では「瞑想」と言い、中国では「禅定(ぜんじょう)」と言い、インドと密教では「ヨガ」と言います。
正統な気功では、瞑想で穏やかな気持ちを探して、見つけ、そして維持していきます。
人格を高めるためには、善と悪についての正しい認識が必要ですが、気功の視点から見ると、認識を持つだけでは足りません。人間の気持ちは不安定で弱いですから、外部の刺激があれば、揺れやすいのです。

気功の瞑想(禅定、ヨガ)は、穏やかな気持ちを安定して保つことに役立ちます。
その安定力がないと、“我”が強いのはいけないと分かっていても、誘惑があれば、外部の刺激に負けてしまいます。
その安定力の訓練をするには最初はかなり苦労しますが、慣れると次第に楽しくなり、練習の良い気持ちから離れたくなくなります。そうなると、わがままな気持ちも薄くなっていきます。
正しい認識を持ちながら練習を続けると、善の気持ちが現われて、安定してきます。その安定感を得たら、外部の刺激や欲の誘惑があっても動揺はしなくなります。

自分の気功が、どういうレベルになっているかを知るには、自分の気持ちがどういう状況かを見れば分かると思います。実は、気持ちが穏やかになり安定した状態になれば、自分で分かるだけでなく、外見にも現われてくるので、他人から見ても分かるのです。
それは、穏やかで落ち着きがあり、信頼できる雰囲気です。その気持ちを持つと、少々のトラブルがあっても、すぐに解決できて、みんなと上手く融合していきます。
この状態になると、こだわることが少なくなるので、顔つきにも純粋さが見えてきて、ある程度のユーモアもあるようになります。
気功には「定慧双修」とう言う言葉があります。
「定」は「禅定」、「瞑想」のことを示しています。
「慧」は善について、人生について正しい認識を持つことや、考えることです。
「双修」には二つの意味があり、ひとつは、「定」と「慧」のバランスを良く取って、修業(練習)することです。

正しい認識を持っていてもそれに合わせる安定力(瞑想)の訓練をしないと、善や人格を高めることは身につきません。反対に瞑想だけを行っても、正しい認識を持っていなければ、瞑想の方向が必ずだんだん変わって行きます。最初は良い気持ちを追及していても、必ずいつか別の方向にいってしまいます。
双修のもうひとつの意味は「定」と「慧」がうまく融合されていることです。
「定」と「慧」は絶対的に分けられることではなく、「定」の中に「慧」があり、「慧」の中に「定」があるということです。
瞑想する時には、正しい認識を持って行いましょう。正しい認識を持てば、心も安定します。瞑想と正しい認識が一致して、融合しなくてはなりません。   
      (2009年 会報55号)
二つの築基功
「築基功」とは、中国語で、基礎を築く功法という意味です。築くという意味は、功法に従って上手に練習できるようになることだけではなく、それを基本として、体質が改善されて体内の気の感覚が分かるようになる事です。昔は「百日築基」という言葉がありました。それは百日間、まじめに一生懸命練習すれば、体の改善(元気になる)と、気が強くなって分かるようになるということです。ですから「築基功」という名前は道教系の功法の中でも見ることができます。
禅密気功の「築基功」は、背骨で体を動かす、という功法です。今回はこの功法の二つの側面について詳しく述べたいと思います。
築基功の二つの側面というのは、強く力を入れて痛いところの筋、筋肉を伸ばして、体力を消耗する運動としての側面と、朦朧として夢うつつになって体の中の気を動かす瞑想としての側面です。

運動としての築基功は、動作を大きく、強く動かして、意念は筋、筋肉、関節に置きます。動きながら、より効果のある動作を探して、こっている筋、筋肉をもっと大きく強くのばして動きます。動く時に痛みや疲れを感じても、そこでやめないで、練習を続けていかないと、期待した効果は得られません。やめてしまうと、軽い疲労やこりは取ることができますが、長い間に蓄積された疲労や、癒着している筋、筋肉をほぐすことは出来ません。痛い部分を強く動かし続けて痛みを感じるようになった時点から、改善されますし、運動の疲れを感じる時点から、疲労を改善する効果がより高くなります。体にはそういう仕組みがあります。強い刺激を与えていくと、体が覚えて、改善する動きが始まります。これは私が子供時代からいろいろな運動をして得た体験です。
運動選手たちの運動は極限を超えている運動ですが、私たちは極限近くまで運動すればよいと思います。運動量もじょじょに増やしていきます。そうは言っても年齢により運動量と強さは加減して下さい。
運動としての築基功を続けると、全身のこりが少なくなり、体力と筋力がアップし、落ち込んだ気持ちが無くなって、元気で前向きな気持ちになります。この面の築基功を練習すると、内臓、骨、血管にも良い影響を与えます。

もう一つの側面は瞑想です。瞑想としての築基功はゆっくり、柔らかく、滑らかに動くことです。この時は動作ではなく、体内の気を動かす事に意識を集中させているので、結果として、背骨を動かそうとする意識がなくなり、体は自然に揺れているような感覚です。体内の気は揺れている背骨にそって動いています。気を動かす練習をすると、自然に気持ちの底の緊張感がほぐれてきて、全身の気が活性化します。
難病でも、このような滑らかな動きと瞑想によって改善されることが時々みられます。
運動としての築基功は物理的な筋肉、筋(マクロ)から体に影響していき、瞑想の築基功は気、気持ち、意念(ミクロ)から体に影響を及ぼしていきます。両方を上手に組み合わせていけば、効果も倍増するでしょう。
初心者は動くことを多めに、長く練習している人は瞑想のほうを多めに練習します。体がこっていて、疲れている人は、動くことを多めに、精神的な疲れがたまっている人は瞑想を多めに練習します。若い人は動くことを多めに、中高年者は瞑想を多めに練習します。朝は動くことに重点を置き、夜は瞑想に重点を置きます。

肉体労働をしている人は瞑想を多めに練習して、頭脳労働の人は体を動かすことを多めに練習します。どちらに重点を置くにしても、必ず最初は体を動かしてから、瞑想あるいは動く練習に入って下さい。
以上はあくまでも原則で、自分で練習を行いながら、自分にあった配分を見つけることが、一番良いことですので、皆さん、練習しながら探してください。 
(2009年 会報52号)

瞑想の効果について
瞑想の効果を四段階に分けて説明したいと思います。 第一段階:最近たまっているストレスや疲れを解放する効果(「昏沈定」)
第二段階:全身の気が活性化する効果
第三段階:性格と世界観が変わり、人格が高まる効果
第四段階:人間が本来持っている円満な人格が現れる効果

第一段階:最近たまっているストレスや疲れを解放する効果

瞑想をする時、初心者は目標に集中しようとしても、雑念が多く眠気に襲われやすいものです。それでも瞑想を続けると、気持ちは良くなり、ストレスの解消には効果があります。夜なかなか眠れない人でも、瞑想中に座ったままで寝てしまう場合があります。こういう状態は正式な瞑想とは言えませんが、疲れをとる、ストレスを発散させるという意味では効果があります。この状態を「昏沈定」といいます。初心者でなくても疲れた状態で瞑想をすると、眠気に襲われる事があります。2千年前、瞑想の達人であるお釈迦様でも、たまにこのような状態になりました。ある日、川のそばで瞑想をしている時に眠ってしまい、馬車の列が通ったことも気づかず、目を覚ました時に、たくさんの馬糞を見て、眠っていたことに気づいたという話があります。

第二段階:全身の気が活性化する効果

疲れがとれると、意識と気持ちを安定させやすくなります。そうすると脳神経と気持ちの緊張感がほぐれてきて、全身の毛細血管が開き細胞が元気になります。ようするに全身の気が活性化してきます。気が活性化すると体質が改善され、以前よりも元気になって、この段階では多くの病気が改善されます。時には医学では治らないといわれた病でも治る場合もあります。 仏教の数息観、六妙門、密教系の中脈と七つの輪を活性化する功法では、この段階のことを詳しく説明しています。また道教系の任脈や督脈に沿って気を廻すという功法も、その段階のことをしめしています。 気が動きはじめる時、気がたくさんある時、気が満杯になった時のそれぞれの感覚は、異なります。そして流派によっても違いますが、満杯になる時の感覚は大体同じで、肉体の感覚が無くなり、かわりに気の体を感じます。そして気の体も宇宙と一体になるという感じになります。ここで強調したいことは、意念と気の関係です。 最初、気を動かすためには、少し強い意念を使いますが、だんだんと、意念があっても無いような、より弱い意念を使うようになります。以前の会報に書いた「意領気行」(会報34号)、「意守気動」(会報36号)、「意随気行」(会報37号)はそのことを説明しています。この段階で、注意すべきことは、気やパワー等の不思議な感覚等を追求しすぎると偏った人間になってしまい、ふつうの社会に適応出来なくなってしまうので、その兼ね合いには十分に注意しなくてはなりません。

第三段階:性格と世界観が変わり、人格が高まる効果

肉体の感覚が無くなり、気の感覚を続けて守っていくと、性格が変化してきます。 ご存じのように、人間の多くの欲は体と絡んでいます。体の感覚が無くなると、肉体につながる「五蓋」(会報30号)、要するに良くない性格が段々と薄くなり、かわりに良い性格が浮かんできます。気の感覚が出てくると、気持ちが良くなり、仙人のような気持ちになります。朦朧の中の良い気持ちが分かってくると、人間の粗末な欲が段々と薄くなって、嫌になり、気持ちが淡泊になり、物事へのこだわりが少なくなります。 瞑想をかなり行うようになると、その段階に応じて性格も良くなります。その良い性格は、大まかに言うと、気持ちが落ち着き安定し、物事の根本や本質を見分けられるようになります。気持ちが優しくなり、柔軟性が出てきます。心から楽しい気持ちが湧いてきます。他人からは、信頼できて、優しい人柄だとみられるようになります。 

第四段階:人間が本来持っている円満な人格が現れる効果

第三段階では正義と悪、善と悪などを区別する気持ちがあって、良い性格を養っているという意識がまだ残っていますし、徳を積むという意識をまだ持っています。 第四段階になると、善と悪を超えて、人間が本来持っている落ち着く気持ちで総ての物事に対応しています。その時の瞑想は、常に「月夜のもと、森林の中、池のそばを散歩している」ような気持ちと一体になります。瞑想といっても普通の生活との区別はありません。本当の禅宗の瞑想法と密教系の大手印、大円満はこの段階の瞑想です。

四つの段階といっても、互いに繋がっていて、特に第二段階と第三段階は重なっている部分があります。第二段階では気を活性化する効果が多くありますが、性格も良くなっています。第三段階では性格が良くなる効果が多くありますが、満杯になった気も感じられます。 瞑想の効果をより効率的に得るためには、瞑想だけでは足りません。正しい生活習慣、良い生活環境、気功の正しい認識などをあわせると、より良い瞑想効果が得られます。 練習しながら瞑想の効果を体験していきましょう。

(2008年 会報48号)

気功の概念について
気功という言葉の由来は道教、厳密にいえば、道家からきています。
50数年前、劉貴珍という気功師の著書の中で気功という言葉が定義、紹介され、以降広く世に知られることとなりました。その頃の気功の定義は、呼吸を整える事を通して元気になる方法でした。もちろん中国には2千年前から意念、気持ちを整える瞑想法はありましたが、それらは気功ではないと思われていました。

950年代の有名な修行者、陳櫻寧は呼吸を整える訓練法は気功であり、意念の訓練法は気功ではないと考えています。しかしながら、実際に呼吸を整える訓練をすると呼吸だけではなくて、体、意念、気持ちの訓練も含まれていて、練習すればするほど、呼吸を整えることよりも意念、気持ちの訓練の重要性を知るようになりました。

1980年代になると気功はもっと全国に広まって、呼吸を整える事だけでは、充分でないと分かり、そして新しい定義が生まれました。それは呼吸を通して体内の気を活性化し、意念の訓練をすることが気功だというものです。当時の代表的な気功家焦国瑞が、気功の特徴は「人の精神、体、呼吸、三つのポイントを合わせて体内の真気(内気)を訓練する方法だ」と言っています。もう一人の代表的な気功家林厚省は、「気功は簡単に言えば、気と意念を訓練する方法である」と定義しました。

1980年代以降、気功の普及と気功の新しい定義の影響で、今まで含まれていなかった道家の仙人になるため(仙道)の瞑想(禅定)と、仏教の悟りのための瞑想(禅定)が気功の重要な一部になりました。現在、仏教の僧侶に「気功とは何か」と尋ねると、知らないと答えるかもしれませんが、気功を練習する人たちは僧侶が行っている瞑想(禅定)は、気功だと考えています。

2000年前後には、気功を大学の教育に取り入れるためにテキストを作る時、気功に関する専門家たちは何日間もの論争の後に「気功は体、呼吸、意念を整えること(三調)を通して元気になる功法である」と定義をまとめました。

以上で気功の認識についての経緯を簡単に紹介しました。

次に私が言いたいことは、仏教の瞑想(禅定)は、気功の重要な一部であると世の中に認識されてはいますが、仏教系の名前をつけた功法の中には、功法、意念の使い方、気の感覚などについてだけ強調して、気持ちの訓練があまり強調されていない場合が結構見受けられます。仏教の禅定においては、気持ちの訓練は重要なポイントです。本当の仏教系気功であれば、気功を練習する時は初めから最後まで、ほっとするような、落ち着く気持ちを養うことを強調しています。意念と気は、その落ち着く気持ちを出すために訓練するのです。

気功態になると様々な感覚が浮かんできます。いろいろな気の感覚や、直感が強くなるという感覚、気持ちが良くなるという感覚もあります。夢うつつの状態になると、空中浮遊のような感覚になって、虚の世界に入っていると言う感じもあります。どこかの感覚に意識を集中していくと、その感覚が強化され、拡大化されます。 それからさまざまな分かれ道があります。気の感覚だけに集中すると外気功や気功師の道になります。直感に意識を強く持っていくと、超能力者や占い師になるでしょう。虚の世界に意識を集中すれば、宗教の世界に入るかも知れません。そして気功態になる時の虚の感覚と、気功を練習していない時の現実の感覚をうまく切り替えないと精神が乱れます。

良い気持ちに集中するといっても、道家系と仏教系気功では微妙な差があります。景色に例えれば黄山のような山頂に登って、雲海、霧に囲まれると、仙人のような良い気持ちになりますね。それは道家系気功の強調する良い気持ちです。
また、月夜に森林の中、池のそばを散歩すれば、とてもほっとする、落ち着くような気持ちが自然に浮かんできます。これは仏教系気功を練習する時に強調される良い気持ちです。 仙人のような良い気持ちと、ほっとするような落ちつく気持ちは、少し異なりますが、両方とも健康にとっては良い気持です。それらの気持ちを昔は「大薬(体に大変良い)」といいました。両方の気持ちは無関係ということでなく、混ざっていて、紙1枚の裏表の関係であり、かなりの段階までは混ざって、繋がっています。

道家系気功と仏教系気功のどちらかが良いという事ではなく、歴史と文化の由来が異なり、気功に微妙な違いがあるという事です。 一般の私たちは健康になる為に気功を練習するので、伝統的に信頼できる道家や、仏教系気功の練習を続けていけば、必ず良い気持ちを身につけることができ、健康になります。 気功の概念の流れと私の考え方を以上で述べましたが、次は練習を通して、体験していきましょう。

(2006年 会報40号 )
瞑想を考える(悪しき暗示や洗脳を避けて)
  • 瞑想の効果

    禅密気功は瞑想を重視します。今回の劉先生の特別セミナーでも「禅密瞑想」というコースをつくりました。上級レベルの功法では一層瞑想が中心になっていきます。既に皆さんも実際の練習で、瞑想を通じて色々な心身の体験をされているはずです。瞑想については、欧米では様々の角度、視点から多くの研究者が研究し、その成果を発表しています。

  • 悪しき暗示や洗脳への悪用を悲しむ

    一方で瞑想についての不安感や不信感をお持ちの方がいらっしゃることも事実でしょう。とくに最近相次ぐ事件によってこうした空気が社会的に強くなっていることも確かだと思います。瞑想の過程で、誰かの意図的な暗示が作用して、いわゆる洗脳状態に陥ることもあると思います。事件はこうした中から起きていると思います。瞑想しているとき、私達は雑念や束縛から解放されます。穏やかな静かな精神状態に到達します。このとき、だれかが意図を持って、何かを指示すれば精神状態が変わる可能性もあります。団体の教義だとか、誰かの考え方などを押しつけたり、掛け軸を買えばご利益があるとか、この人を崇めれば大きな力を得られるだとか、吹き込むわけです。これを利用して勢力を拡大することになるのでしょう。自分を失い、他の誰かやモノに依存してしまう。なんと馬鹿げた、というより悲しいことでしょうか。あってはならないことです。

  • 禅密気功は心身の健康と活力の獲得を願うのみ

    私達は、こういった動きをしっかりと排除しなければなりません。私達は何のために気功を練習し、瞑想をするのか。ただ心身の健康を獲得し、維持し、回復する事を願うだけです。私達は、自分の心を穏やかにし、何物にも束縛されず、自由に自分の力を信じれば良いのです。そして、日常普段の生活への力を回復するだけです。朝の光の中で、「さあ今日も一日がんばろう」とか、元日の朝、太陽に向かってこの1年に向けて心を新たにすることとおなじです。瞑想(気功)を終わって、生活や仕事への活力を得る、これだけのことではないでしょうか。禅密気功では、よく宇宙のエネルギーと一団になる、自分の存在感をなくし、宇宙と一体になるといった表現をします。これこそ自分の心を最高に穏やかにし、何ものにも束縛されず、倚りかからず、依存しない自由な状態だと思います。そこから日常生活への心身の活力がまた生まれてくると、信じています。

朱剛談)(1999年 会報3号)

気功の心を大切に
現代の生活にはいろいろな要因で多くのストレスがつきまとっています。
仕事や家庭、自分自身や家族の健康の問題から社会的な問題まで、一人ひとりの抱える問題はそれぞれに異なっているでしょう。しかし一人ひとりの問題はそれぞれに異なっていても、そこから逃げるのではなく、むしろそれを受けとめ、乗り越えていかなければなりません。どのような問題があっても、自分自身の生活から逃れることはできません。この世を捨てるのではなく、この世の中で自分自身(もちろん理想的にはすべての人)の生活を前向きに、楽しくすることが大切ではないでしょうか。それがまた世の中を良くしていくことにつながるはずです。人生のいろいろな問題にくじけているわけにはいきません。
私たちが気功を練習するのは、自分自身の心を穏やかにして、健康を回復、維持し、楽しく生活していくことが目的です。現実の生活の中での欲望やいろいろな事に向かっての意思を捨て去るのではなく、気功の練習で体得した「穏やかな心」「楽しい心」を、日常の生活のなかで活かし、日常の生活そのものを豊かにしていくことなのです。気功を練習しているときは、すべてを忘れ、執着を捨て去って、心からの楽しさを目指します。それによって得られた穏やかな心でまた日常の普段の生活に当ります。これを繰り返し、続けることに意味があります。
「大楽得大定」という言葉があります。「楽しさ」を追求することで大きな「定」(雑念を取り払って安定した状態)を得られるという意味です。そうしていくうちに恐らく健康の回復、増進も可能になるはずです。医学界や心理学界でも気功の効果が注目され、西洋医学や理論との連携も実践されつつあります。
気功の練習で、なにものにも執着しない、束縛されない、心底からの良い気持ちを体得し、健康を獲得して、いつもの普段の生活をさらに活力を持って続けていくこと、これが私たちの願いです。


                                     (1999年 会報1号)


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